千住

■『おくのほそ道』の全現代語訳はこちら
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、冨士の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと伝所にて船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るなるべし。

千住大橋
現在の千住大橋

現代語訳

三月二十七日、夜明け方の空はおぼろに霞み、有明の月はもう光が薄くなっており、富士の峰が遠く幽かにうかがえる。

上野・谷中のほうを見ると木々の梢がしげっており、これら花の名所を再び見れるのはいつのことかと心細くなるのだった。

親しい人々は宵のうちから集まって、舟に乗って送ってくれる。千住というところで舟をあがると、これから三千里もの道のりがあるのだろうと胸がいっぱいになる。

この世は幻のようにはかないものだ、未練はないと考えていたが、いざ別れが近づくとさすがに泪があふれてくる。

行春や鳥啼魚の目は泪
(意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。

これをこの旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりなんだろう。

語句

■「明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から」 『源氏物語』「月は有明にて光をさまれるものから、かげさやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり」をふまえた表現。 ■谷中 上野の西北の大地。墓地がある。 ■舟に乗て 深川から舟に乗り、隅田川をさかのぼって千住へ行ったもの。 ■千住 日光街道最初の宿駅。 ■前途三千里の思ひ 行く先はるかな旅路への感慨。 ■幻のちまた 幻のようにはかない現世(そうはいっても別れるとなると、やはりつらい)。 ■矢立の初 旅で詠む最初の句。「矢立」は携帯用の筆入れ。

解説

元禄2年(1689年)3月27日。46歳の松尾芭蕉は門人河合曾良とともに
住み慣れた深川の庵を出発します。

夜のうちから親しい門人たちが集まり、出発を宿してくれます。
六畳一間の芭蕉庵には人が入りきらず、庭にまでガタゴトと
台を持ち出して、夜通しワイワイやりました。

「先生、無理はしなでくださいよ。
体調が悪いときは、必ず休むこと」

「それと、相手が払うっていうときは
ちゃんとお金を受け取ってください」

「ははは、みんなありがとうな」

「曾良、元気でな。先生のこと
よろしく頼むぞ」

「ええ…みなさん、本当にありがとう」

現在、芭蕉庵のあった位置には「芭蕉稲荷」が建っています。
(ただし芭蕉庵の正確な位置は不明です)

河合曽良(1649-1710)。

河合曽良はこの年41歳。
信濃上諏訪(長野県諏訪市)の高野七兵衛の
長男として生まれますが、
両親の死にともない叔母の家の養子となります。

後、その養父母も亡くなり
伊勢の長島の親戚の家に引き取られ、岩波家を継ぎ
岩波庄右衛門正字(まさたか)と名乗ります。

伊勢長島初代藩主松平康尚(まつだいらやすなお)に仕え
河合惣五郎と名乗りました。

しかし天和元年(1681年)ころ浪人して江戸に下り、
幕府神道方吉川惟足(これたり)について神道・和歌を学び、
後に芭蕉に入門しました。

曾良の家は芭蕉庵のそばにあり、薪を割ったり
炊事をしたり…芭蕉の身のまわりの世話をしていました。

2年前の『鹿島詣』の旅にも同行しています。
今回『おくのほそ道』の旅に出るにあたって、芭蕉は当初
門人の路通を随行者にと考えていました。

しかし芭蕉は曾良の事務処理能力の高さ、
地理や神道に通じていることを見て、
直前で曾良を同行者に変更したのでした。

曾良が旅の随行中、たんねんに書き記した
『曾良旅日記』は『おくのほそ道』に書かれたことの
何が事実で何が創作なのかを見る上で貴重な資料となっています。

出発

翌朝はやく、芭蕉と曾良と門人たちは
隅田川に舟を浮かべます。

「ああいよいよ始まるんですねえ旅が」
「先生、ちゃんと食べないとダメですよ」
「わかってるよ」

などと言いながら、舟は隅田川をさかのぼり、
千住に到着します。日光街道最初の宿です。

千住大橋
現在の千住大橋

おくのほそ道 矢立の碑
千住 おくのほそ道 矢立の碑

千住 おくのほそ道 出発の図
千住 おくのほそ道 出発の図

前途三千里のおもひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

これから三千里もの旅が始まると思うと胸に熱いものがこみあげる。
この世は仮の宿にすぎない。幻のようにはかないものだ。
普段はそういう思いだったが、長年親しんできた門人たちと
別れるのは、やはり涙があふれてくる。

行く春や鳥啼魚の目は泪

行く春を惜しんで、そして別れの名残を惜しんで、
鳥も魚も目に泪を浮かべているようだ…

これも考えてみれば、無茶な句です。

隅田川の水面を、すーーっと水鳥が飛んいってる。
その水鳥が、見ると、目から
ぶわっと涙を流している。

そして隅田川の水底に視線をうつすと、魚たちが
これまたブワッと涙を流している。

もう魚の涙で隅田川の水かさがまして、
洪水になりそうだと…

そんなバカなって話ですが…。

そこが、イメージです!

今、晩春の、春が過ぎ去ろうとしている季節である。
門人たちとお別れである。ここまでは事実です。

この事実を出発点として、イメージをふくらませているわけです。
この別れを惜しんで、
鳥も魚も目に涙を浮かべていると。自由に、イメージをふくらませているわけです。

「さあ行こうか曾良」
「はい先生。まずは日光へ!」

千住宿

千住は、日本橋から北へ8キロに位置する日光街道最初の宿で
板橋宿、内藤新宿、品川宿と並び、
江戸四宿の一つとして栄えました。

現在は隅田川を境として南の荒川区、
北の足立区にまたがります。
古くは千寿、千手、専住とも書きました。

その名の由来は、足立区千住二丁目の勝専(しょうせん)寺にある
千手観音だとも、足利義政の愛妾「千寿の前」が
生まれた場所だからとも言われます。

享保年間(1716-36)以降、宿内のやっちゃ場(青果市場)では
毎朝、競り市が開かれ、魚介類や五穀が取引され、
日本橋魚河岸と並ぶ賑わいでした。

隅田川南の南千住駅周辺には、
吉田松陰・橋本佐内の墓のある回向院、
ターヘル・アナトミア(解体新書)を手に入れた
杉田玄白・前野良沢らが
解剖図の正確さを確かめるために
腑分けにたちあったことで知られる小塚原刑場跡、
もと上野の寛永寺の正門であった黒門や
彰義隊戦死者の墓のある円通寺など見所が多いです。


朗読・訳・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル