市振
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今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云(いう)北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐(いね)たるに、一間隔て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。年老たるおのこの声も交(まじり)て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成(なり)し。伊勢参宮するとて、此関(このせき)までおのこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因(ごういん)、いかにつたなしと、物云(ものいう)をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍ん。衣の上の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ」と、泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我ゝは所々にてとゞまる方(かた)おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云捨て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし。
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
現代語訳
今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていたところ、ふすま一枚へだてて道に面した側の部屋から、若い女の声が聞こえてくる。二人いるようだ。
それに年老いた男の声もする。聞くともなしに聞いていると、この二人の女は越後の国新潟という所の遊女なのだ。
いわゆる「抜け参り」だろう。伊勢参りのため主人に無断で抜け出してきて、この関まで男が送ってきたのだ。明日女の故郷へ返す手紙を書いてこの男に託し、ちょっとした伝言などをしているようだった。
白波の寄せる渚に身を投げ出し、住まいもはっきりしない漁師の娘のように波に翻弄され、遊里に身を沈めて遊女というあさましい身に落ちぶれ、客と真実のない夜毎の契りをして、日々罪を重ねる…前世でどんな悪いことをした報いだろう。いかにも不運だ。
そんなことを話しているのを聞く聞く寝入った。次の朝出発しようとすると、その二人の遊女が私たちに話しかけてきた。
「行き先がわからない旅は心細いものです。あまりにも確かなところがなく、悲しいのです。お坊様として私たちに情けをかけてください。仏の恵みを注いでください。仏道に入る機縁を結ばせてください」
そう言って涙を流すのだ。不憫ではあるが、聞き入れるわけにもいかない。
「私たちはほうぼうで立ち寄ったり長期滞在したりするのです(とても一緒に旅はできません)。ただ人が進む方向についていきなさい。そうすれば無事、伊勢に到着できるでしょう。きっと神はお守りくださいます」
そう言い捨てて宿を出たが、やはり不憫でしばらく気にかかったことよ。
一家に遊女もねたり萩と月
(意味)みすぼらしい僧形の自分と同じ宿に、はなやかな遊女が偶然居合わせた。その宿にわびしく咲く萩を、こうこうと月が照らしている。なんだか自分が萩で遊女が月に思えてくる。
このあらましを曾良に語ると、曾良は書きとめた。
語句
■親しらず子しらず 現新潟県糸魚川市西端にある断崖絶壁。北陸道最大の難所。道が狭く波が激しいので親と子が互いを見ることができないのが名前の由来(一説)。「犬もどり・駒返し」はその東の難所。 ■一間隔てて ふすま一枚隔てて隣の。 ■伊勢参宮するとて この年元禄2年(1689年)は伊勢の神宮の式年遷宮の年。(9月)。当時は父母や主人に内緒で抜け出して伊勢参宮する「抜け参り」という風習があり幕府は黙認した。戻ってからも主人に怒られることはなかった。越後では特にさかんで一生に一度はやるものだった。芭蕉は最終章「大垣」で「伊勢の遷宮おがまんと」再び旅立っていく。 ■白浪のよする汀に身をはふらかし 「はふらかす」は落ちぶれる。「しら浪のよするなぎさにみをつくすあまのこなれば宿もさだめず」(よみ人しらず・新古今集)。 ■あまのこの世をあさましう下りて 「あま」は漁師。家を持たない漁師の娘のようにあさましく落ちぶれ果て。 ■定めなき契 真実の無い客に毎夜体をもてあそばれる。 ■衣の上の御情 芭蕉も曾良も僧の格好をしていたため。 ■大慈のめぐみ 広大無辺の仏の慈悲。特に観世音菩薩の慈悲。 ■結縁 仏道修行の縁を結ぶこと。■哀さしばらくやまざりけらし 「けらし」は詠嘆。芭蕉が好んで使う語。不憫な思いがしばらく止まらないことだったなァ。 ■一家に… 「ひとついえ」と読む説もあり。 ■曾良にかたれば、書とゞめ侍る 『曾良旅日記』には遊女に関する記述は無い。そのため創作と思われる。 ■西行と江口の遊女 西行が大阪の江口で雨にあった時、雨宿りをさせてもらおうと遊女の家の戸を叩くが断られる。そこで西行は「世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな」(出家して尼さんになれと言うなら難しいでしょうが、ただ一夜の宿を貸してくれと言ってるだけなんです。それすら、ダメと言うんですね)。遊女の返歌「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」(あなたは出家隠遁して世を捨てた方とお聞きしています。一夜の宿などにこだわられますな。そう思うばかりです)。そう言って遊女は扉をしめた、という故事。
解説
芭蕉と曾良は親不知、子不知、犬戻、駒返と、その名も強烈な難所を超えて、進んでいきます。
せまい海岸のギリギリまで断崖絶壁が迫り、旅人は命がけで、うっかりすると波にさらわれるキケンを犯して、命がけで進んだのでした。
現在は崖の上を国道が走っているので、わけなく進むことができます…。
「はあ。今日はくたくたに疲れた」
「先生、もう何も考えず、寝ましょう」
夜、寝ていると、壁一枚隔てて向うの部屋から話がきこえてきました。
「女が二人…それと年寄りが一人いるなあ」
聞いているうちに、事情が飲み込めてきました。
二人は新潟の遊女で、老人は店のもののようでした。二人の遊女は伊勢参りをする途中でした。このころ、「抜け参り」といって店に無断で奉公人が抜け出して伊勢参りをする風習がありました。
これを店はとがめませんでした。一生に一度は伊勢参宮はしておくべきだとされ、店にとっても功徳になるということで黙認されていたようです。しかもこの年元禄2年は伊勢神宮の式年遷宮の年です。
「はあ…それにしても私たちは、どうしてこんなことになっちゃったんでしょう」
「夜毎夜毎に、知らない男に体をもてあそばれる。いったい前世でどんな罪を犯してこうなったのかしら」
などと話しているのを聞きながら、眠りにつくと、翌朝、二人の遊女が芭蕉と曾良に話しかけてきます。
「あのお坊さま…もし、遠ましにでもよろしいですから、
伊勢までついて行ってもよろしいでしょうか。
どうか、罪深い私達に、あわれみをください」
しみじみと涙を落とす遊女を前に芭蕉は不憫になりますが、といっても、聞き入れるわけにもいかないです。
「私たちはあちこち立ち寄る先が多いのです。
伊勢に着くのがずいぶん遅くなってしまいますよ。
街道沿いを多くの人が伊勢に向かっていますから、
その方角についていけば、必ずつきます。
きっと神も仏も守ってくださいます」
そう言って別れたものの、やはり心にひっかかり、哀れな気持がこみ上げるのでした。
家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
みすぼらしい僧形の自分と同じ宿に、はなやかな遊女が偶然居合わせた。その宿にわびしく咲く萩を、こうこうと月が照らしている。なんだか自分が萩で遊女が月に思えてくる。
こんな出来事がほんとうにあったのか?というと、
まず間違いなく、創作と言われています。
芭蕉は西行法師と江口の遊女の故事に基づいてこの場面を創作しました。
その昔、西行法師が大坂の江口で、一夜の宿を借りようと家の戸をたたくと、中から遊女が出てきました。
遊女との間で泊めてくれ、いや泊めないの歌によるやり取りがあって、すっかり打ち解けた西行と江口の遊女は、夜を徹して語り明かしたという話です。
この西行法師と江口の遊女のエピソードをふまえて、松尾芭蕉は市振の話を創作したものと思われています。