平泉

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三代の栄耀(えよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡(やすひら)等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)と成べきを、四面新(あらた)に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時(しばらく)千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂

現代語訳

藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も、邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え、南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある。

秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残している。

まず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。

衣川は秀衡の三男和泉三郎の居城跡をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。

嫡男泰衡の居城跡は、衣が関を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。

それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。

国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。

夏草や 兵どもが 夢の跡
(意味)奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。

卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良
(意味)白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)

かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂には藤原三代頭首の像、光堂にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。

奥州藤原氏の所有していた宝物の数々は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。

今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。

五月雨の 降りのこしてや 光堂
(意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ。

語句

■三代の栄耀 奥州藤原氏の清衡、基衡、秀衡と三代続いた栄華。四代目の泰衡の時、文治5年(1189年)源頼朝に滅ぼされる。 ■一睡のうちにして 邯鄲一炊の夢 謡曲「邯鄲」で知られる中国の故事。黄粱の一炊。一炊の夢。廬生という書生が上京する途中、邯鄲というところで宿を借りて昼寝したところ、自分の一生を壮大な夢に見た。目が覚めてみるとごくわずかな飯を炊くほどの時間であった。正しくは「一炊」だが、「一睡」と書くことも多い。 ■大門 平泉館の南大門跡。 ■秀衡が跡 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が建てた伽羅館(きゃらのたち)藤原秀衡は奥州藤原氏第3代当主。平泉の全盛期を築いた。中央では保元・平治の乱とそれに続く源平の争乱で揺れる中、奥州の地で独自の勢力を保っていた。源平合戦終結後、兄頼朝と決裂して奥州に逃げてきた義経を保護。国衡・泰衡ら息子たちに義経を主君として仕えよと遺言して没す。 ■金鶏山 藤原秀衡が富士山に模して築いた山。奥州鎮護のために黄金製の鶏を山頂に埋めたといわれる。 ■高館 中尊寺の東南にある丘陵。義経の屋敷があった。衣川館または判官館とも。泰衡に攻められた義経はここで最期をとげた。もとは奥州の豪族安倍頼時の居城があった。 ■北上川 岩手・宮城を流れ仙台湾石巻に注ぐ奥州一の大河。宮沢賢治ゆかりの川として有名。「やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」 ■南部 南部領。現在の岩手県盛岡市を中心とする広い地域。 ■衣川 歌枕。平泉の北方を東に流れ、北上川と合流する。衣の関。衣が関は安倍氏が設置した関所。中尊寺金色堂の北西にあった。「衣川みなれし人の別れには袂までこそ波はたちけれ」(新古今集) ■泰衡 秀衡の嫡男、藤原泰衡。奥州藤原氏四代目当主。父の遺言にそむき義経を攻め、自刃に追い込む。後に頼朝に滅ぼされた。平泉館の南に館跡がある。 ■衣が関 高館西の山の下にあった古跡。歌枕。 ■南部口 平泉から南部地方への出入り口。 ■和泉が城 秀衡の三男、和泉三郎の居城。「塩釜」の章で和泉三郎寄進の宝燈を芭蕉は見ている。 ■義臣 忠義を尽くす家来。弁慶や兼房らのこと。 ■国破れて山河あり、城春にして草青みたり」 杜甫「春望」の「国破れて山河在り、城春にして草木深し」、湖伯雨「望准」の「白骨城辺草自ら青し」をふまえる?  ■兼房 義経の家臣、十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)。最後まで義経を守って戦い、戦死。「義経記」にその名が見える。架空の人物。 ■中尊寺 慈覚大師が850年に開山。後に藤原清衡が再建した天台宗の寺。 ■二堂 経堂と光堂。 ■経堂 一切経一万六千巻などを納めた蔵。 ■三将 清衡・基衡・秀衡のこと。 ■光堂(金色堂) 清衡が阿弥陀堂と葬堂を兼ねて建てたもの。藤原清衡のミイラがある。建物全体を金箔で覆ってある。覆堂という建物の中にある。現在の覆堂は昭和になって鉄筋コンクリート製に改築されたもの。 ■三尊 阿弥陀三尊。阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩。 ■四面新に囲て 鎌倉時代1288年、光堂を覆う鞘堂が作られた。

解説

高館 ~ 義経終焉の地

JRの平泉駅で降りて、線路に沿って盛岡方面へ歩いていきます。

平泉
平泉

中尊寺
中尊寺

まず右手の辺鄙な道に入るとすぐに、
義経終焉の地、高館です。

源義経は平家を壇ノ浦に滅ぼしたあと、兄頼朝と対立して
都を追われ、奥州の藤原秀衡をたよって平泉まで逃げ延びます。

義経は秀衡のもとで守られていましたが、
秀衡が亡くなり息子の康衡が跡をつぐと
様子がおかしくなってきました。

康衡は鎌倉からの再三の圧力に屈しきれなくなって、
とうとうこの高館にあった義経の館を襲撃します。

義経はやむなく、持仏堂の中で妻子と共に自害という、
悲惨な幕切れになってしまいました。

この時に、有名な弁慶の立ち往生というエピソードも生まれました。

今この高館にのぼると、

「義経堂」

という小さなお堂が建っているだけで、
眼下には芭蕉の時代と同じく雄大な北上川が眺められます。

夏草や兵どもが夢の跡

という名句は、ここ高館で詠まれました。

金鶏山 ~ 平泉の鎮守

すこし国道のほうに引き返すと、
金鶏山という小高い山がみわたされます。

藤原秀衡が、平泉の守りとして山頂に雌雄一対の金の鶏を埋めたと
伝えられる山です。ふもとにある平泉文化遺産センターの裏から
のぼっていけます。

「秀衡があとは田野になりて金鶏山のみ形をのこす」

奥州藤原氏とは?

奥州藤原氏は、もと清原氏といいました。
この東北一帯を支配していた豪族です。

1083年、奥州で後三年の役が
勃発し、5年間にわたり戦われます。

そもそものきっかけは清原氏の内紛に
陸奥守として京都から派遣されてきた
源義家が武力介入したことでした。

戦は長期戦に及びますが、清原清衡は、
陸奥守源義家と組んで
同族の家衡・武衡を滅ぼしました。

ところが義家は奥州に権力地盤を得たいという私利私欲から
この戦に武力介入したものであり、
院からは「私の戦」とみなされて、恩賞が出ませんでした。

一方、清原家衡は清原氏の所有する広大な土地を
手に入れ、奥州に広大な領土を所有する支配者となりました

清衡自身は何ら戦での働きはなく、
ほとんどの戦功は源義家が立てたものですが…。

結果として、一番の利益を得た
(土地を拡大した)のが清原清衡ということになります。

ところで清原清衡には清原氏の血は一滴も通っていません。

先の前九年合戦で討たれた藤原経清という者が清衡の実の父です。
父が亡くなった後、母が清原氏と再婚したたために清原の姓になったのでした。

今や清衡は、姓をほんとうの父親の姓、藤原に戻し、
藤原清衡と名乗りました。

以後、四代にわたり奥州に一大勢力を築く、
奥州藤原氏のはじまりです。

「しかし…妻を失い、子を失い…多くの同朋を失った。
広大な土地を得たところで、何になるというのだ。
死んだ者はもう生き返らないというのに…」

そこで清衡は前九年合戦・後三年合戦で
討たれた人たちの霊をなぐさめるため、
平泉に広大な寺院を築きます。

中尊寺です。

しかし源氏としては源義家が得るはずであった
奥州の利権を、なんら働きもなかった藤原清衡がかすめとった、
という恨みが残りました。

この恨みは100年以上後までひきずります。

(おのれ奥州藤原氏。われらが祖先八幡太郎義家の積年の恨み、
忘れぬぞ。いつか、きっと攻め滅ぼしてくれる…)

そして実際にその恨みを晴らし、奥州藤原氏を亡ぼしたのが、
義家から4代目の子孫の、源頼朝です。

平泉の黄金文化

金色堂は、お堂がぜんぶ金箔で塗ってあり
絢爛豪華です。平泉文化をそのまま象徴しているようでもあります。

当時、南岩手の金山では良質な金が取れました。
代々奥州藤原氏頭首は、南岩手の良質な金を
朝廷に献上し、その金で朝廷は中国と貿易し、、
ために藤原氏はたいへんに繁盛したのです。

マルコポーロの「東方見聞録」に「黄金の国」として
紹介されているのも平泉だといいます。

特に三代秀衡の時には平泉は京都と並ぶ
日本第二の都市として栄えました。

奥州藤原氏 おぼえ方

藤原四代のおぼえ方があります。

キモヒヤス。

キ  清衡
モ  基衡
ヒ  秀衡
ヤス 康衡

キモヒヤス。
奥州藤原氏四代。
ちょっと頭の片隅に入れているといいかもですね。

中尊寺の月見坂

金鶏山を左に見ながら
国道沿いに進んでいくと、
すぐに中尊寺です。

中尊寺につづく長い参道の入り口が左に見えてきます。

「月見坂」という参道です。

左右にうっそうと茂った杉並木が、とてもいい雰囲気です。
空気も神聖で澄んでいる感じがします。

じっくりと味わいながら、この月見坂は上がって欲しいです。

しばらく行くと左手に、

弁慶堂

「弁慶堂」

というお堂があります。中には武蔵坊弁慶の木の像がかざってあります。
これぞ最期の戦い、弁慶の立ち往生と言われる、全身に矢を受けて、
主人の義経を守ったまま息絶えたという、
あのエピソードを、木の像に彫ってあります。

背中には七つ道具をしょってます。

よく牛若丸と五条大橋で、芝居なんかで見る、
あの白い頭巾を巻いた弁慶とは違って、
真っ黒な肌で、ギロッとにらまえて、仁王さんみたいな、
弁慶。迫力です。

東物見(ひがしものみ)と西行の句碑

義経主従のことにしばし感慨にふけりながら
弁慶堂を出ると、目の前にはすごく開けた、景色のいい、
坂の下を見渡せる東物見という場所があります。

その脇には西行法師の歌碑が立っています。

[きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは]
(ききもせず たばしねやまの さくらばな よしののほかに かかるべしとは)

西行法師。芭蕉がもっともあこがれていた、
旅人の先輩です。

弁慶や義経が生きた源平合戦の時代を生きた人物です。
武将という立場からではなく、歌人として、また出家隠遁者として、
どんな目で西行はこの時代を見ていたのか…

そんなことに思いを馳せながら坂をのぼっていくと、
すぐに中尊寺の本堂にたどりつきます。

金色堂 ~ 平泉観光のクライマックス

金色堂は見事の一言です。
現在ではコンクリートの覆いで覆われて、
その中に、かつての金色堂があります。
建物の中に建物があるわけです。

金色堂中央の須弥壇には、
奥州藤原氏三代、清衡、基衡、秀衡のミイラと、
四代目泰衡の御首級(頭蓋骨)がおさめられています。

コンクリート製の覆堂は1965年に
つくられたもので、もとあった覆堂は、
もっと境内の奥に「旧覆堂」ということで
その姿を見ることができます。

ざっと紹介してきましたが、
境内にはほかにも宮澤賢治の歌碑など、
見所がいっぱいです。


朗読・訳・解説:左大臣光永

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