壷の碑
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かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有。今も年々十符の菅菰を整て国守に献ずと云り。
壷 碑 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計カ。苔を穿て文字幽也。四維国界(しゆいこくかい)之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人(あぜちちんじゅふのしょうぐんおおののあそんあずまびと)之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣アサカリ修造尚。十二月遡日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。
現代語訳
加衛門にもらった絵地図にしたがって進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に十符の菅菰の材料となる菅が生えていた。今も毎年十符の菅菰を作って藩主に献上しているということだった。
壷の碑は市川村多賀城にあった。
壷の碑は高さ六尺、横三尺ぐらいだろうか。文字は苔をえぐるように幽かに刻んで見える。四方の国境からの距離が記してある。
「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣アサカリが修造した」と書かれている。
聖武天皇の時代のことだ。
昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は新しくなり、石は地面に土に埋もれて隠れ(「しのぶの里」)、木は老いて若木になり(「武隈の松」)、時代が移り変わってその跡をハッキリ留めていないことばかりであった。
だがここに到って疑いなく千年来の姿を留めている歌枕の地をようやく見れたのだ。目の前に古人の心を見ているのだ。
こういうことこそ旅の利点であり、生きていればこそ味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れて、涙も落ちるばかりであった。
語句
■彼画図 加衛門にもらった絵地図。 ■おくのほそ道 岩切村入山の東光寺門前裏山へ続く、大淀三千風によって整備された街道。『おくのほそ道』中で「おくのほそ道」という単語が出てくるのはこの一箇所。 ■十符の菅 節が十ある菅菰を編む材料となる菅。「菅(すげ)」はカヤツリグサ科の草木。笠や蓑の材料となる。「十符の菅菰」は菅から編んだ菅菰(むしろ)で、十の節があった。この地方の名物。 ■国守 四代目仙台藩主伊達綱村。 ■壷碑 坂上田村麻呂が「日本中央」と彫り付けたとされる石碑だが、ここでは伊達綱村時代に多賀城址から多く発掘された多賀城改築の記念碑。現宮城県多賀城市市川(宮城野の東北2.5Km)にある多賀城碑のこと。多賀城は奈良時代に蝦夷の南下を防ぐために坂上田村麻呂が設置した城柵。芭蕉が見たのは江戸時代に仙台藩主伊達綱村が発掘したもので、古歌に詠まれているものとは違うという説も。歌枕としての「壷の碑」を詠み込むときは、「遠い異郷の地」がテーマとなる。「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風」(西行)。 ■四維国界之数理 しゆいこくかいのすり。四方の国境までの距離。 ■神亀元年 724年。聖武天皇即位の年。 ■按察使 あぜち。地方の行政などを監視する役職。後に奥州にのみその名が形式的に残り、鎮守府将軍が兼任した。 ■鎮守府将軍将軍 神亀元年 東北地方の蝦夷を抑えるために置かれた責任者。■大野朝臣東人 大野東人(おおののあずまびと ?-742)。藤原宇合(ふじわらのうまかい 694-737)とともに蝦夷に赴任し多賀城を築いた。九州の藤原広嗣の乱(740年)鎮圧にも功績があった。 ■所里 「所置」の誤記。修正すると「おくところ」と読める。 ■天平宝字六年 762年。淳仁天皇の時代。東海東山節度使 東海道・東山道の軍事を司るため臨時に派遣された役職。 ■将軍恵美朝臣アサカリ 恵美押勝(藤原仲麻呂)の息子。 ■聖武皇帝 天平宝字六年は淳仁天皇の御世。「アサカリ」は獣編に萬と表記されているが、「朝」+獣編に葛が正しい。 ■而 「也」の誤記。 ■石は埋て土にかくれ しのぶもぢずり石が念頭にある。 ■木は老て若木にかはれば 武隈の松が念頭にある。 ■古人の心を閲す 古人の心を見る。 ■存命の悦 「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び日々に楽しまざらんや」(徒然草・93段)。
解説
芭蕉は奥州路ですでにしのぶもぢずり石、武隈の松などの歌枕を尋ねていますが、いずれも昔そのままの姿ではなく、変わり果てていました。ここに至ってようやく完全な形の「壷の碑」を見ることができ、芭蕉はとても感動しています。
ただし芭蕉が訪ねた「壷の碑」は古歌に詠まれた「壷の碑」ではなく、今日「多賀城碑」といわれているもので、別物だと考えられています。
「多賀城」は奈良時代に蝦夷の南下を防ぐために坂上田村麻呂が設置した城柵で、芭蕉が見たのは江戸時代に仙台藩主伊達綱村が発掘したものです。
またこの章は「おくの細道」という単語が登場する唯一の章です。