須賀川
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とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかゞしう思ひめぐらさず。
風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ
太山 もかくやと閒 に覚られて、ものに書付侍る。其詞 、栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、
行基 菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。世の人の見付ぬ花や軒の栗
現代語訳
このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。
かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。
須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。
「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」
風流の初やおくの田植うた
(白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)
何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。
この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。
「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
(栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い)
語句
■あぶくま川 あふくま川。「逢ふ」に掛けて詠まれることが多い歌枕。歌枕としては「オウクマガワ」と発音。 ■会津根 会津磐梯山。「根」は「嶺」。高村光太郎「山麓の二人」に歌われている。 ■岩城 内藤能登守義孝七万石の領地。現福島県いわき市平を中心とする地域。 ■相馬 相馬弾正少弼(だんじょうしょうひつ)昌胤六万石の領地。現福島県相馬市中村を中心とした地域。 ■三春の庄 秋田信濃守輝季五万石の領地。現福島県田村郡三春町を中心とする地域。 ■かげ沼 具体的にどこを指しているか諸説ある。福島県岩瀬郡鏡石町付近にあった蜃気楼現象で知られていた沼のことか。また、建暦年間に鎌倉幕府の御家人和田胤長がこの地に流刑され、妻が訪ねてきた時はすでに処刑された後だった。妻は鑑を抱いて入水した。以来、この沼の水面は鑑のようにピカピカになり、物の姿が映るようになったという話も。 ■すか川の駅 陸奥国磐瀬郡須賀川村。現福島県須賀川市。仙台松前街道、大きくは奥州街道の宿駅。 ■等窮 相良伊左衛門。等窮は俳号。芭蕉より六歳年上。須賀川の宿場町を統括する人物であったらしい。自筆本には「等躬」。曾良本で「等窮」と改める。 ■橡ひろふ太山 「山深み岩にしたゞる水とめむかつがつ落つる橡拾ふほど」(西行)橡はとちのき科の落葉高木。大きな葉に七枚の小葉がある。実から橡餅をつくる。 ■脇・第三とつゞけて三巻となしぬ 連句の最初の五・七・五の句を「発句」、次の「七・七」を「脇」といい、主人が客人をもてなすために作ることが多かった。続く「五・七・七」を「第三」といい、三十六句まで詠んで「歌仙」とする。その「歌仙」が三巻分できたということ。自筆本「一巻」を曾良本で「三巻」と改める。 ■世をいとふ僧 本名簗内(やない)弥三郎。俳号可伸。または栗斎(りっさい)。 ■行基 668-749。奈良時代の僧。土木技術に長け民衆への布教を行い、聖武天皇の大仏建立を助ける。ただし栗の木を杖に使った話は法然上人の逸話が行基上人に置き換わっている。『法然上人行状絵図』に法然上人が「栗の木は西の木と書けり」と述べている。
解説
芭蕉は白河越えの余情を残したまま、須賀川に入っていきます。いよいよ本格的な奥州路です。「左に」「右に」と、視界の広がりが感じられる文体で、広々した景色が目に浮かぶようです。
須賀川の駅では俳人等窮に迎えられます。芭蕉より六歳年上で、須賀川の宿場町を統括する人物であったようです。
等級のもとで、俳諧の席が設けられます。まず芭蕉が発句を詠みました。「風流のはじめや奥の田植え歌」…いよいよ本格的に奥州路に入って、さあどんな風流が味わえるかなと、私はワクワクしておりました。
そこへ、ひなびた田植え歌が聞こえてきました。ああ…いいなあ。その歌が、奥州路で味わう風流の第一となりました。ほう、これはいいですね。嬉しいですねえこんなふうに詠んでいただけるとなんて声が上がったかもしれません。
すぐに脇句を続け、第三、第四と句が続いていき、…「三巻となしぬ」とありますから、三十六句続けて詠む「歌仙」を三巻ぶん。つまり108句続けたということです。ずいぶん盛り上がったことですね。
後半はがらりと雰囲気がかわり、栗の木の下で庵を結ぶ僧、可伸を訪ねます。やはり芭蕉は世捨て人生活にかなり強烈な憧れを持っているようです。
栗という字が西の木と書くので西方浄土に関係していると、行基上人が栗の木を杖として使ったと書かれていますが、それをしたのは法然で、いつの間にか行基上人の話にすりかわったものです。
「どうかね曾良。軒端の栗の花。
地味で誰も目に留めないが、
ああいうものこそいいじゃないか」
「先生、一句できそうですか」
「うむ」
世の人の見付ぬ花や軒の栗