小松

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小松と云所(いうところ)にて

しほらしき名や小松吹(ふく)萩すゝき

此所(このところ)、太田(ただ)の神社に詣(もうづ)。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらざぶらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打(うっ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状(がんじょう)にそへて、此社(このやしろ)にこめられ侍(はべる)よし、樋口の次郎が使せし事共(ことども)、まのあたり縁起にみえたり。

むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす

現代語訳

しほらしき名や小松吹萩すゝき
(意味)】「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。

ここ金沢の地で、太田の神社に参詣した。ここには斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があるのだ。

その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、義朝公から賜ったものだとか。

なるほど、普通の平侍のものとは違っている。目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、そこに小金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある。

実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社にこめた次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたことなど、当時のことがまるで目の前に浮かぶように、神社の縁起に書かれている。

むざんやな甲の下のきりぎりす
(意味)痛ましいことだ。勇ましく散った実盛の名残はもうここには無く、かぶとの下にはただ コオロギが鳴いている。

語句

■太田神社 現石川県小松市上本折町。多太八幡宮神社。衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)を祭る。 ■斉藤別当実盛 はじめ源義朝に仕える。平治の乱で義朝が討たれた後は、平宗盛に仕える。孤児になった義仲を一時保護したことがある。源平合戦では平維盛に従い、北陸で木曽義仲軍と戦う。篠原の合戦で討ち死。70歳を越えていたが、「老武者といって侮られるのは不本意だ」と白髪を黒く染めて戦場に赴く。平家物語「実盛」、謡曲「実盛」で知られる。 ■錦の切 平宗盛より下賜された赤地の錦の直垂。 ■源義朝 源為義の長男。頼朝や義経の父。保元の乱(1156)で平清盛と共に後白河天皇方につき、勝利。左馬頭となる。平治の乱(1159)に敗れ、尾張国で家臣の長田忠致の元に潜伏するが、長田父子に入浴中殺された。「義朝の心に似たり秋の風」(『野ざらし紀行』)。 ■目庇 兜の前部の庇。 ■吹返 ふきがえし。兜の目庇の両側から出て後ろに反り返っている部分。 ■菊から草のほりもの 菊と蔓草を図案化した金の彫り物。 ■竜頭 兜の鉢の前面につけた龍の形の金具。■木曽義仲 源義仲。源義賢(よしかた)の次男。2歳の時に父義賢が源義平(よしひら)に討たれる。乳母の夫、中原兼遠(なかはらかねとお)をたよって信濃国に赴き、その地で成長する。頼朝、義経らに先駆けて反平家の旗を上げるが京都粟田口にて討たれる。平家物語「木曽最期」に詳しい。芭蕉は義仲にことに思い入れが強かった。「義仲の寝覚めの山か月悲し」「木曾の情雪や生えぬく春の草」の句を詠んでいる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」(島崎又玄)芭蕉の墓は義仲と同じ大津膳所の義仲寺にある。平家物語「木曽最期」。 ■樋口の次郎 樋口次郎兼光。義仲の家臣で武勇にすぐれ、今井兼平(いまいかねひら)・根井行親(ねのいゆきちか)・楯親忠(たてのちかただ)とともに「木曽四天王」の一人とされた。巴御前の兄。実盛とは旧知の間柄で、首実検で実盛とみとめて、涙を流した。 ■むざんやな 樋口次郎が斉藤別当実盛の首を前に発した台詞「あなむざんや」をふまえる。樋口次郎は義仲の死後、降伏するが斬首される。平家物語「実盛」「樋口被討罰」。 ■きりぎりす 古文で「きりぎりす」といえば、コオロギを指す。百人一首「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」。

解説

小松の太田神社には、斉藤別当実盛の兜と錦のひたたれが奉納されています。芭蕉は『平家物語』や謡曲に描かれた木曽義仲と斉藤別当実盛の場面を思い浮かべて、涙を流します。

斉藤別当実盛は、もと源義朝に仕えており、幼年時代の木曾義仲の命を救ったことがあります。

しかし、その後平治の乱で源義朝が討たれると平家に仕えました。はじめ平重盛に、重盛が若くして亡くなってしまうとその子宗盛に仕えます。

時は流れ、義仲は立派な若者に成長します。

1180年(治承4年)後白河法皇第三皇子以仁王が打倒平家の令旨を発すると、義仲は令旨を受けてすぐに打倒平家の旗挙げをします。

信濃横田河原で平家方の城長茂を破り、ついで北陸倶利伽羅峠で平維盛率いる7万騎を敗走させます。

木曽義仲 進撃経路

ちりぢりになって篠原方面を逃げていく平家方。その最後尾で敵を防いで戦っていたのが、斉藤別当実盛です。この時70歳を越えています。すっかり白髪頭ですが、老人だからとて手加減無用とばかりに髪の毛を黒くそめて、立派な錦の陣羽織をまとって戦場に赴いていました。

そこへ木曾義仲方の手塚太郎光盛が声をかけます。

「そこなるは平家の名だたる大将とお見受けする」
「そういうそなたは」
「手塚太郎光盛」

「手塚殿。貴殿の名をはずかしめるわけでは
ござりませぬが、わけあって名乗ることかなわぬ。
組もう」

取っ組み合いになります。上になり、下になり、
双方必死で相手を組み伏せようとしますが、斉藤別当実盛。
いくら心は気丈といえど、寄る年波には勝てず、
ついに手塚に組み伏せられ、その首かっ斬られてしまいます。

手塚光盛はその首を持って大将木曽義仲の前に参上します。
「どうもおかしな武士でした。とうとう最後まで名乗りませんでした」

「はっ…これは、斉藤別当実盛殿ではないか?」

義仲の脳裏には、幼いころ自分を助けてくれた
斉藤別当実盛の俤がよぎります。

しかしこ斉藤別当実盛が生きているなら、
もう70歳は越えているはず。こんなにも髪の毛が
黒々としているのはおかしいということで、
斉藤別当と親しい側近の樋口次郎兼光を呼び出します。

「あなむざんや。斉藤別当で侍ひけり」

樋口の口から斉藤別当の普段の覚悟が語られます。
60過ぎて戦に向かう時は髪の毛を黒く染めて若者のなりを
しようと思う。老武者だからと手加減されるのも
口惜しいことだからと。

そこで、首を洗い流してみたところ、
真っ白な髪の毛があらわれました。

この時の樋口次郎兼光の台詞「あなむざんや」を取って、
松尾芭蕉は「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠みました。

ちなみに学校で必ず習う古文の知識として…
古文でいう「きりぎりす」は「こおろぎ」のことです。
コロコロ鳴いているところをイメージしてください。


朗読・訳・解説:左大臣光永

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