徳川綱吉と生類憐れみの令

■『おくのほそ道』の全現代語訳はこちら
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

松尾芭蕉が生きたのは5代将軍徳川綱吉の時代です。

徳川綱吉が行った政策といって、
まっさきに浮かぶのは何でしょうか?

そうです。

悪法として名高い
生類憐れみの令です。

縁側で涼んでいると、プーン、えぇうっとうしい。ふん、ふん、ふん、ペチッ、ふっ(つぶした蚊を息で吹き飛ばす)。見たぞ。蚊を殺したな。御用。御用。後ろに手がまわって、八丈島に島流しになった。こんなこともあったそうです。

生類憐れみの令といっても、そういう名の法律があったわけではなく、順次発布された60あまりの動物保護令の総称として、生類憐れみの令と言っています。

なぜこんな悪法が実施されたんでしょうか?

将軍綱吉は長男徳松を5歳で失い、以後跡取りが生まれていませんでした。気に病んだ母桂昌院が、帰依していた僧隆光という僧に相談しました。

「なぜ跡取りが生まれないのか」
「前世の因縁です。将軍さまは戌年生まれです。犬を大切になさい」

こうして母桂昌院がわけのわからない坊主にたぶらかされた結果、綱吉は素直に母の言うことをきき、過剰な犬の保護が行われます。またもともと綱吉は犬の形の湯たんぽを愛用するなど、犬の愛好家でもありました。

キャンキャン、キャンキャン

ある武士が、
毎晩泣き喚く犬にたまりかねていました。

もう許せん。死ぬええ!!

ズバ、キャヒーーン

「これで静かになった」

バチン(鞘に刀をおさめる音)

「見たぞ」「えっ」

「お犬さまを殺したな!」
「お犬さまを殺したな!」「御用!」

こうして武士は八丈島に流され、その主君は改易となりました。

誰も犬には逆らえなくなります。

「へへえ、お犬さま、お犬さま」

はいつくばる市民。道の真ん中をいばって野犬が歩いていきます。立派なお召し物をお召しになって。お犬さまにちょっとでも手を出すと処罰です。誰も恐れて手を出せなくなりました。人間のほうが犬みたいです。狂った支配者に治められると、世の中は不幸です。

あまりに野犬があふれたため、大久保と四谷と中野に犬小屋をつくって保護しました。特に中野の犬小屋は大きく中野駅周辺がすっぽり入るくらいの、広大なものでした。その負担は江戸の市民から巻き上げた税金です。とんでも無い世界です。綱吉は「犬公方」とよばれました。

綱吉の狂気は犬だけにとどまりませんでした。馬牛鳥魚貝など、保護すべき動物はしだいにふえていきます。大迷惑です。

想像してください。ゴキブリをスリッパで叩いたら島流し。ナメクジに塩かけたら島流し。そんな世界です。

一説に、水戸光圀は綱吉に抗議するため犬の皮20枚を送ったといいますが、効果はありませんでした。暴君綱吉は、この悪法になぜか異常に執着します。

聖武天皇にしても徳川綱吉にしても、日本の暴君は中国や西洋の暴君と違って性格としては残虐なわけではなく、むしろ人民をいたわろうという使命感に燃えていました。綱吉は学問に熱心で、湯島聖堂を開きました。一方では聡明な綱吉が、ここまで愚かな悪法に執着したのは興味深いことです。

「私が死んでも生類憐れみの令だけは残してくれ」綱吉はそう遺言しました。しかし宝永6年(1709年)、綱吉が死ぬと次に将軍となった家宣によって生類憐れみの令は順次、廃止されます。

「今までの恨みだ」ドカーッ
キャン、キャン

犬を蹴飛ばす者もあったそうです。

近年、教科書で徳川綱吉と生類憐れみの令に対する見直しが進んでいます。優柔不断でマザコンで、どうしようもないダメ将軍のイメージは無くなりました。

綱吉は儒教の精神によって戦国以来の殺伐とした雰囲気を終わらせた、開明君主ということになってきています。

綱吉は名君だった。それが世の中の流れになりつつあります。はたしてそうなのでしょうか。時代時代によって歴史上の人物の評価も大きく変化する。徳川綱吉は、その変化が特に激しい例です。

朗読・訳・解説:左大臣光永