松尾芭蕉について

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松尾芭蕉は寛永21年(1644年)、三代将軍家光の時代、松尾与左衛門の次男として伊賀上野、現在の三重県に生まれました。2男4女の3番目で、兄半左衛門のほかに姉一人妹三人がいました。

芭蕉は幼名を金作といい、後に甚七郎、元服後は宗房と名乗りました。芭蕉と俳号を名乗るのはずっと後年、深川にすむようになってからです。

父与左衛門の地位は【無足人】…名字帯刀は許されているものの、禄高は無い、実質的な農民だったといわれます。伊賀をおさめていた藤堂新七郎良精(とうどうしんしちろうよしきよ)に仕えていました。現在でも三重県上野の赤坂というところに芭蕉の生家が残っています。軒の低い、小さな家です。

金作が13歳の時に父与左衛門が亡くなり、兄半左衛門が家督を継ぎます。金作はそういつまでもブラブラしてられないということでしょうか。19歳の頃には土地の侍大将藤堂新七郎良精の館に出仕しています。名も甚七郎、元服後は宗房とあらためました。

宗房の役割は、台所用人、つまり料理人だったと推測されます。藤堂家の若殿良忠は宗房の二歳年上でした。年齢も近く、二人はすぐに仲良しになります。

お互い俳諧に興味があったようで、京都の北村季吟の門下となって俳諧を学びました。良忠は俳諧の号を蝉吟(せんぎん)と言いました。実の兄のような蝉吟との俳諧修行を通して、宗房の俳諧への思いは強くなっていきました。

また兄半左衛門はとてもいい人で、宗房を援助してくれました。優しい兄と、実の兄のような主君・蝉吟を持ち、青年時代の宗房は希望に包まれて過ごしていました。

ところが宗房23歳の時、実の兄のように親しんできた藤堂良忠が25歳で亡くなります。宗房はどうしたのか?それから7年ほどは消息はわかりません。藤堂家を去ったのか、残り続けたのか…、京都に行っていたという話もあります。

寛文12年(1672年)29歳の時、故郷伊賀の上野天満宮に処女句集「貝おほひ」を奉納します。故郷の俳諧仲間と詠んだ発句30番をつづったものでした。「俳諧師として生きていく」という決意表明です。この時故郷の友人にささげた句が残っています。

雲とへだつ友かや雁のいき別れ

雁が北へ帰っていくように、私も遠い江戸に旅立つのだ。雁が雲にへだてられて見えなくなるように、みんなともお別れだ。

宗房は住居を江戸俳壇の中心地、日本橋に定めます。現在の三越本店裏手に借家がありました。そして宗房は俳諧師としての名(俳号)を桃青と名乗りました。

日本橋に出た芭蕉

29歳の松尾宗房は、門人の小沢卜尺(おざわぼくせき)、杉山杉風をたよって江戸日本橋に出てきます。小沢卜尺は広大な土地を所有する名主で、日本橋小田原町にすまいを提供しました。杉山杉風は幕府に魚を卸す魚問屋の主人で、こちらも芭蕉の生涯にわたって経済面での支えとなります。宗房は人の協力を得ることに長けていたようです。

2年たち3年たつうちに、門弟たちの働きかけもあって少しずつ弟子がふえていきます。しかし俳諧の添削から得られるわずかな収入だけでは、暮らしは楽になりません。ぼろを着て、満足に食べられない日も多く、やせ衰えていました。もともと病弱な上に貧乏生活のため、さらにガリガリでした。

西山宗因

そのうちに大阪で流行していた西山宗因が江戸に出てきます。西山宗因(1608-1685)。肥後八代出身の俳諧師です。加藤清正の家臣に仕えていましたが、加藤清正は病死し、二代目でお家取り潰しになります。その後、肥後には細川家が入ってきます。

すると、加藤清正の家臣に仕えていた西山宗因も、浪人してしまいます。このあたりから武士の道をあきらめ、俳諧に転じたようです。

宗因の俳諧は談林派とよばれ、おどけた滑稽な感じが受け入れられ、大阪を中心に流行していました。しだいに江戸にも流行が及んできていました。

対して松尾宗房の学んだ貞門派の俳諧は、古典の教養を重んじる、お硬い作風です。しだいに談林派の勢いに飲まれていきます。

西山宗因は当時たいへん羽振りがよく、立派な着物を着て、吉原で派手に遊びまわります。宗因先生、宗因先生。どこへ行ってもちやほやされます。

江戸の俳壇では、西山宗因をお迎えするということで俳諧の席をもうけます。その俳諧の席に、やせおとろえたみすぼらしい男がいました。おい、なんだあの不景気なのは。はい。伊賀上野出身の松尾宗房です。俳諧の号を桃青といいます。桃青…?上方ではそがん名前聞いたことなかばってんねえ…。

しかし、あけてみると、その日の俳諧の席で一番見事な句を詠んだのが桃青でした。時に松尾宗房32歳。西山宗因69歳。西山宗因は若き日の松尾宗房を前に、こいつ将来が楽しみだと思ったか。俺の仕事取られるんじゃないかと恐れたか、それはわかりませんが。

松尾宗房は西山宗因についてこう書いています。

上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり

先人として西山宗因がいなかったら、我々の俳諧はいまだに松永貞徳のよだれをしゃぶっていただろう。つまり貞門派の流れから抜け出せていなかったろう。宗因は俳諧の道の中興の祖だ。

ちなみに西山宗因の弟子の一人が、浮世草子の井原西鶴です。

神田上水の工事にかかわる

宗房の生活はわずかな俳諧の添削料だけで、いっこうによくなりませんでした。

「これ以上門人たちの世話になりっぱなしでは悪い」

宗房は34歳の時、神田上水の改修工事の現場監督として働き始めます。宗房がかつてお仕えしていた藤堂家が神田上水の改修工事にかかわっていた関係で、仕事を得られたのでした。

今の地下鉄有楽町線江戸川橋駅です。駅を出るとすぐに神田川沿いに遊歩道が走り、その遊歩道の横に関口芭蕉庵があります。神田上水改修工事の現場監督をしていた芭蕉が暮らしていた仮住まいに、後に建てられたもので、現在ちょっとした公園になっています。すぐ近くには椿山荘や新江戸川公園、水神社があり、春先は、桜がきれいです。

芭蕉はここで1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)まで4年間、働きました。労働者の帳簿記録などを行っていたと考えられています。その間も俳諧の活動は続け、延宝6年(1678年)宗匠としてプロの俳諧師となりました。

一方、世間であれほど持てはやされていた西山宗因の談林派の俳諧は、飽きられ、すたれていきます。

深川 芭蕉庵

延宝8年(1680年)年、宗房は突如深川へ引っ越します。神田上水工事の仕事もやめました。なぜ深川へ引越したかはわかりません。客にこびへつらう商売になっていた俳諧に嫌気がさしたなど諸説あります。

門人の杉山杉風が深川に鯉を飼ういけすを持っていましたが、その池はもう使わなくなって、池の番人が寝泊りする番小屋が開いていました。杉風はこの番小屋を師に提供します。

「どうぞ、先生、使ってください」
「杉風よ、すまんな。何から何まで…」

隅田川のやや東にかつて六間堀という細い運河が流れていました。竪川(たてかわ)と小名木川(おなぎがわ)とを南北につなぐ運河です。その運河沿いにこの番小屋はありました。両国橋と清洲橋の間、新大橋のあたりです。現在この場所には深川芭蕉記念館が建っています。

はじめ杜甫の詩にあやかって、泊船堂と庵の名をつけました。

晴れた日には東北に筑波山が、西南に富士山がよく見えました。南は隅田川から江戸湾が広々と開け、すぐの西には上野の森がこんもりと茂って見えます(今ならスカイツリーも見えますね)。

ある時、門人の一人李下が芭蕉の苗をくれました。庭に植えたところ、23年のうちに見事に成長します。夏には大きな葉がゆらゆら揺れて、遠くから訪ねていくときも、いい目印となりました。以後、この庵のことを芭蕉庵とよび、本人も松尾芭蕉の号を名乗ります。

冬の寒い夜、うすい布団にくるまって寝ていると、ギイィ、ギイィと舟をこぐ櫓の音がきこえてきます。ああ…寒いなあ。はらわたが凍るようだ。あのギィギィいう音が、なおさら寒さを引き立てる。泣けてくる。

櫓の声波を打つて腸凍る夜や涙

みすぼらしい庵ですが、しょっちゅう門人たちが訪ねてきて、ワイワイやっていました。また芭蕉は近所の子供たちに勉強を教えてあげたりました。六畳一間の狭い場所ですが、そんなふうに常に人の出入りがあり、にぎやかでした。

「先生、ちゃんと食べてるんですか」
「いやあ、大丈夫だよ」
「痩せましたよ。たまにはおいしいものを召し上がってください」
「いやいや、そんな」

芭蕉はけして金を受け取らないので、門人たちは味噌や醤油も差し入れました。また庵の柱には瓢箪が吊り下げてあり、門人たちが気をつかって、お米をいれておいてくれました。ありがたや、ありがたや…手をあわせながら、芭蕉は米をといで食べたのでしょう。このひょうたんは友人の山口素堂により四山という名前がつけられました。

もの一つ瓢(ふくべ)はかろきわが世かな

庵の中に、盗まれて困るようなものはひとつも無い。あえて言えばこの瓢箪がひとつあるだけだ。身軽なもんだ。

静かな庵の生活。ところが、とんでも無い事件が起こります。

天和二年の火事

火事と喧嘩は江戸の華といいますが…

天和2年(1683年)12月28日正午、駒込から発生した火は強風にあおられて広がっていき、本郷をなめ尽くし、下谷、浅草へ広がり、隅田川を越えて本所・深川にも及びます。死者は3500名にのぼりました。

芭蕉は塗れた手ぬぐいをかぶって海へ飛び込み助かりましたが、深川は焼け野原になってしまいました。当然、芭蕉庵も燃えてしまいます。

「ああ…宿無しだ。どうしよう」

しかし、人の縁はありがたいもので、友人の山口素堂が皆から金を集めてもとの庵のあとにまた庵を建ててくれました。後年第二芭蕉庵と呼ばれるものです。

蕉風の胎動

雨がふると天井から水が漏れました。そんな時はたらいで水を受け止めます。ぽちゅん、ぽちゅん、夜通し、たらいに当たる水の音が響き、外では嵐の中、バサー、バサーと軒端の芭蕉がゆれていました。芭蕉は嵐の中、夜通し句を練っていました。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな

後年、「蕉風」とよばれることになる渋い水墨画のような作風は、じょじょに形成されつつありました。貞門派のみやびな作風でもなく、談林派のおどけた感じでもなく、独自の世界を確立する。今まで誰もやらなかったことをやる。芭蕉の中でもやもやしていたものが、しだいに固まりつつありました。

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

枯れ枝に烏からとまっている、秋の暮れだ。訳の必要も無いくらい、わかりやすい句です。何のてらいもありません。それでいて、水墨画のような渋い味わいがあります。藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮れ」に通じる渋みが出ています。

ギャア、ギャア

飛び立つ烏を庵の縁側から眺めながら、
芭蕉は思います。

(旅に出たい…。西行も、宗祇も、
旅の中で歌を詠み句をつくったのだ…)

しだいに旅に心ひかれていく芭蕉。
そんな中、故郷の伊賀上野から頼りが届きます。

「なに!母上が…」

故郷の母が亡くなったのでした。ずいぶん顔をあわせていませんでした。
母親の死に目にあえなかったことは、さすがにショックでした。

翌年の貞享元年(1684年)8月、
41歳の芭蕉は門人の千里と深川の庵を出発します。
東海道を下り、故郷の伊賀上野を中心に伊賀・伊勢・
大和地方をめぐるつもりでした。

「もうけっこうな歳だし…
旅先で行き倒れになるかもしれんなあ。
道端にしゃれこうべをさらすことになるかもしれん」

「先生!縁起でも無いこと言わないでください」

「千里よ、心構えを言ったまでのことだ」

野ざらしを心に風のしむ身かな

「野ざらし紀行」の、旅のはじまりです。

野ざらし紀行~

芭蕉は深川に居を構えて後は、旅をしては紀行文を発表するということが多くなります。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更級紀行」などの作品が書かれました。

元禄2年(1689年)、芭蕉は門人曾良を伴って「奥の細道」の旅に出発します。この旅を通して芭蕉は「不易流行」(不易=永遠に変わらないもの、流行=その時々で移り変わるもの。これらは正反対のようで、その根は一つ)の考えに至ったといいます。

元禄7年(1694年)、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で客死します。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

遺骸は本人の生前希望により、大津膳所の義仲寺に納められました。

朗読・訳・解説:左大臣光永