塩釜

原文

早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇(寄)進」と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(名)今に至りて、したはずといふ事なし。誠(まことに)「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。日既に午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。

語句

■塩がまの明神 現宮城県塩竃市北西。武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、塩土老爺(しおつちのおじのかみ)をまつり、陸奥の鎮護をつかさどる神社として古くから崇められてきた。1608年(慶長12年)伊達政宗が紀州の大工を招き大造営を行わせた。古来陸奥国・一の宮として信仰を集めている。 ■国主再興 慶長12年(1607年)伊達政宗が修造。 ■宮柱ふとしく 堂々とした柱が立つ様子。動詞の活用語尾を形容詞のシク活用と混同している。 ■彩椽 色を塗った垂木。 ■九仞 きわめて高いこと。 ■あけの玉がき 朱に染めた垣根。 ■塵土 「けがれたこの世」または「国土」。ここでは「国土」の意味。 ■文治三年 1187年。 ■和泉三郎 奥州藤原氏三代目当主、藤原秀衡(ふじわらひでひら)の三男、藤原忠衡(ふじわらただひら)。義経を庇護していた父秀衡の死後、長男の国衡(くにひら)、嫡男の泰衡(やすひら)はこれに背き、頼朝の求めによって義経を攻める。そんな中三男の忠衡は父の遺言に従って義経に最後まで従い、最後は義経に味方したかどで処刑される。享年23。 ■奇進 「寄進」の「寄」を「奇」と書くのは当時の慣習。 ■そぞろに 何となく。何がどうとういことではないが。 ■勇義忠孝 忠衡が父秀衡の言いつけを守って最期まで義経を守って従ったことを言う。 ■佳命 「佳名」の誤記と思われる。すばらしい名。名声。 ■雄島の磯 瑞巌寺の西南1Km。渡月橋で本土と続いている島。歌枕。「見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず」(千載集 殷富門院大輔 百人一首90番)

現代語訳

早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。

このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、たいへん尊く思った。

神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻んである。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。

義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、何がどうということではないが、とにかく有難く思った。

俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。

「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当にその通りだ。

もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。

解説

宮城の鹽竈神社は松島湾西南10キロほどの位置にある神社で、タケミカヅチノカミを祀り、陸奥一の宮としてあがめられています。

和泉三郎(いずみのさぶろう)は、藤原秀衡(ふじわらひでひら)の三男で、父の死後その遺言に従い、最期まで義経を守って戦った人物です。「奥の細道」では「佐藤庄司が旧跡」「平泉」など源義経に関した記述がいくつもあります。


朗読・訳・解説:左大臣光永


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