近松門左衛門と竹本義太夫

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芭蕉の生きた元禄時代。

歌舞伎と人気を二分していた娯楽が
人形浄瑠璃です。

近松門左衛門

近松門左衛門は本名杉森信盛。1653年(承応2年)、
越前福井の武家杉森家の次男として生まれます。

近松が12-15歳の頃、父が浪人します。
なので一家は糧を求めて京都に出てきます。
20代で公家に奉公し、この時に古典の素養を身に着けたようです。

当時京都の四条河原は大小の芝居小屋・茶店が立ち並び、
たいへんな賑わいでした。連日、歌舞伎や浄瑠璃が
行われていました。

近松も、公家奉公をしている間に
何度も四条河原を通り、感化されたのかもしれません。

「俺も芝居の世界をめざそう」

そんなことを言い始めました。

「やめておけ」

周囲は止めます。

当時「河原者」といって役者はさげずまれていました。
しかも、近松は武家の出身であるのに。
世間的に見たら、すごい落ちぶれ方です。

(何を好き好んで…)

周囲はあきれ返ります。

その上、よく聞いてみると「芝居」といっても
役者ではなく物語を書きたいと言います。

これも、大変な話です。

当時、浄瑠璃の台本は基本的には語っている太夫が
自分で書くものでした。作者がいるとしても、公には
されず、太夫の作品とされました。

あくまで太夫が主役で、作者はずっと低く見られていたのです。

(頭が変になったのか?)

周囲はあきれ返ったことでしょうね。

しかし、近松の決意は固いものでした。
近松は京都の人形浄瑠璃界の第一人者であった
宇治加賀掾について学びます。

宇治加賀掾は17歳で芸の道を志し、20年の修行を経て
41歳で京都四条河原に宇治座を開きました。

それまでの素朴な浄瑠璃とは一線をかくする
上品で繊細な語り口で、京都でも大阪でも
人気でした。

近松は宇治加賀掾のもとで二十代後半には
いくつかの脚本を手がけるようになっていました。

1683年初演の『世継曽我』がはっきり近松門左衛門作と
わかっているはじめの作品です。

有名な曽我兄弟の敵討ちのその後を描いたもので、
曽我兄弟のそれぞれの恋人など、架空の人物をまじえた
物語です。時に近松31歳。

竹本義太夫

一方…

竹本義太夫は大阪天王寺の農家に生まれますが、家業そっちのけで
浄瑠璃に熱中していました。

「スキィィィィをぉぉぉ持ってぇぇはぁぁぁ」

なんて言いながら畑を耕していたのかもしれません。
これじゃあ農作業にならん。お前そんな浄瑠璃が好きなら、
やれるだけやってみろ。

親もそんな感じで許してくれたんでしょうか。
清水(きよみず)理兵衛に弟子入りし、
天王寺五郎兵衛(てんのうじごろべえ)と名乗り
太夫としての修行を始めます。

竹本義太夫はとにかく声が大きかったです。
高音から低音まで、まんべんなく操り、
まないたに釘を打ち付けているような、
カーーンと高い声で、どんなに大入りでも声が一番後ろの席まで
届きました。

1677年、京都の浄瑠璃の第一人者・宇治加賀掾に招かれ
『西行物語』のワキを語り、好評をはくします。

宇治座との決別

ところが『西行物語』の公演の後、宇治加賀掾と興行師の竹屋庄兵衛が仲たがいをします。

「やってられねえや!」

興行師の竹屋庄兵衛は宇治座を去りぎわに
竹本義太夫を引き抜いていきました。

あんたと一緒ならええ商売ができそうや。
ほうでっか、たのんまっせと。

しかし、サッパリうまく行きませんでした。

独立後、四条河原ではじめて公演した『神武天皇』ははずれ、
一年ほど頑張ったものの、京都での人気は出ず、
地方巡業をするはめになりました。

竹本座を開く

しかし三年間の地方巡業を通して、義太夫は
語りのわざを確立します。

貞享元年(1684)、竹本義太夫は大阪道頓堀で『竹本座』を開き、
近松門左衛門の「世継曽我」を語り大評判となります。

竹本義太夫の語りを近所の子供たちまでが真似するという
大人気でした。

「な、なんやてええええぇぇぇ!!」

京都の宇治加賀掾は大阪で
竹本義太夫が「世継曽我」を語ったと知り、
驚きます。

なにしろ『世継曽我』は宇治加賀掾が前年に語った浄瑠璃でした。
わざわざ宇治加賀掾の持ちネタを語る。竹本義太夫から
宇治加賀掾への挑戦としか思えません。

「ワシを裏切ったばかりか、
ナメ腐ったマネを…。よーし。
そこまでやるんやったら、こっちにも考えがあるで」

貞享2年の競演

貞享2年(1685年)正月、宇治加賀掾は
京都から一座を引き連れて大阪道頓堀へ乗り込んできます。
台本には有名作家の井原西鶴を起用していました。

自分を裏切った竹本義太夫への逆襲です。

「どないしよう。どないしよう。
準備が間に合わんわ」

不意をつかけた竹本義太夫側は、古い作品を急遽
つくり直して、急場しのぎで上演するしかありませんでした。

こうして宇治加賀掾語る井原西鶴作「暦」と
竹本義太夫語る「賢女の手習並に新暦」の勝負となりますが…

大方の予想に反して、急場しのぎの
竹本義太夫のほうが客入りが良かったです。

ほっと胸をなでおろす竹本義太夫。

しかし油断はできないです。次の入れ替えでも、
宇治加賀掾はふたたび挑んでくるに決まっていました。

竹本義太夫は近松門左衛門に相談します。

「近松はん、二の替わりまでに、
なんとか、なりまっしゃろか」

「まかしときなはれ竹本はん、
ワシの台本と、あんたの語り。
二つあわされば、、怖いものなしや。
しかも敵は天下の井原西鶴。こらオモロイ勝負になるで」

出世景清

近松門左衛門が次の入れ替えまでのわずかな期間に
書き上げたのが『出世景清』です。

平家の生き残り、悪七兵衛景清がしつように頼朝の命を
狙うという筋に、景清をしたう遊女阿古屋ほか、
さまざまな人間模様をからめた歴史ロマンです。

対する宇治加賀掾はやはり平家物語にもとづく
「凱陣八島」で挑みます。

どちらも互角の客入りで、勝負が見えませんでしたが、
予想外の事件が起こります。

興行中に宇治加賀掾の芝居小屋から火が出ます。
やむなく宇治加賀掾は京都に撤退しました。

いかにも不完全燃焼な勝負の幕切れとなりましたが…
以後、大阪は竹本座の独壇場となります。

時に近松門左衛門33歳。竹本義太夫35歳。
このコンビから、かの『曽根崎心中』が生まれるわけですが、
それはまだ20年ほど先の話です。

朗読・訳・解説:左大臣光永