松尾芭蕉について

松尾芭蕉が生まれたのは寛永21年(1644年)、関が原から40年以上たち、徳川の支配も安定期に入った頃です。

生地は伊賀国上野。父与左衛門の地位は【無足人】…名字帯刀は許されているものの、禄高は無い、実質的な農民だったといわれます。

芭蕉が13歳の時に父与左衛門が亡くなり、兄半左衛門が家督を継ぎます。芭蕉は松尾家の次男でした。そういつまでもブラブラしてられないということでしょうか。19歳の時には土地の侍大将藤堂新七郎良清の館に出仕しています。

芭蕉の役割は、台所用人、つまり料理人だったと推測されます。藤堂家の若殿良忠は芭蕉の二歳年上。年齢も近く、二人はすぐに仲良しになりました。

お互い俳諧に興味があったので、北村季吟の門下で俳諧を学びました。実の兄のような良忠との俳諧修行を通して、芭蕉の俳諧への思いは強くなっていったようです。

ところが芭蕉23歳の時、実の兄のように親しんできた藤堂良忠が亡くなります。芭蕉はどうしたのか?それから6年ほどは消息がわかっていません。藤堂家を去ったのか、残り続けたのか…、京都に行っていたという話もあります。

寛文12年(1672年)29歳の時、故郷伊賀の上野天満宮に処女句集「貝おほひ」を奉納。これは、「俳諧師として生きていく」という決意表明だったと思われます。そして芭蕉は江戸に下ります。

住居を江戸俳壇の中心地、日本橋に定めます。

江戸に下ってもすぐに俳諧師で生活が成り立つはずもなく、神田上水の工事監督をやったようです。

延宝6年(1678年)に宗匠(師匠)となって職業的俳諧師として歩み始めます。

しかし日本橋を中心とした江戸俳壇は金と名声への欲に満ちており、師匠たちは弟子の数を競うばかりでした。純粋に芸術として俳諧を追求する者は少なかったのです。芭蕉はこの状況に絶望し、延宝8年()、日本橋を去り深川へ去り庵を結びます。37歳でした。

それまで得ていた添削料など、俳諧師としての収入を断たれたことは痛いことでした。しかし弟子たちは芭蕉の深川移転を歓迎し、一丸となって師の生活を援助しました。その中でも幕府に魚を納める魚問屋杉山杉風(すぎやまさんぷう)の援助は大きかったといいます。

庵の庭に芭蕉を一株植えたところ見事に育ったので、この庵を「芭蕉庵」と呼ぶことにしました。そしてみずからも以降「芭蕉」の号を名乗ります。

深川に居を構えて後は、旅をしては紀行文を発表するということが多くなります。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更級紀行」などの作品が書かれました。

元禄2年、門人曾良を伴って「奥の細道」の旅に出発します。この旅を通して芭蕉は「不易流行」(不易=永遠に変わらないもの、流行=その時々で移り変わるもの。これらは正反対のようで、その根は一つ)の考えに至ったといいます。

元禄7年(1703年)、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で客死します。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

遺骸は本人の生前希望により、大津の義仲寺に納められました。



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